社報shinko〜親交〜 2007年10月号

創業80周年を迎えて:創業のころと戦後の復興の思い出(最終回)

会長 古市 實

昭和25年6月、朝鮮動乱の勃発により、米軍の占領政策が一変したのであった。軍需用物資を日本で調達せねばならないため、急遽日本企業の設備増強が始まったのである。戦後5年、不況で苦しんでいた神戸製鋼や三菱重工、川崎重工、住友化学、日立造船など関連メーカー多数が息を吹き返した時代であった。今思うに、朝鮮戦争が再度日本の生産機能を復活させた原動力になったのではないかと思えるのである。

アメリカ政府は、昭和30年に日本生産性本部を発足させ、有力企業の経営トップを無料で招待し、全米の各産業を5週間にわたり見学させ、研修に参加させている。昭和36年9月、私も日本青年会議所の代表として「中小企業の経営視察団」に、故 古市修次名誉会長は昭和38年11月に「欧州めっき視察団」として参加させてもらった。

おそらく長年の間、続けられたことと思うが、当時は日本に技術を指導し、昭和26年9月に調印された講和条約と安全保障条約により当時「強国ソ連」の防衛の一役を担わせることのようであった。このような情勢下であったが、昭和28年9月の朝鮮戦争休戦協定により南北朝鮮国(38度線)が誕生し、韓国への復興需要に変わり、当社でも輸出を再開したのであった。

前年の昭和27年8月には、T.K.ホモミクサー L型を香港の染色工場向けに初めて輸出、続いて台湾に輸出している。当時は、生産能力として月産20台くらいで、主にL型(1/8H )とS型(1H)の2種類のみであった。この頃、鐘紡の役員から「コロイドミル」の話を聞いて早速試作に取りかかり、3馬力のモータに直結し、エメリーフィレットで研究していた砥石を使用して試作機を作った。2枚の砥石の間隙を高速で通過させる精度によって、マヨネーズやピーナッツバター等の食品に最適なことを発見し、異なった分野にホモミクサーと共に将来性のあることを認識したのであった。

昭和28年には染色工場用マークペンの試作を開始、一年半後に製品化している。他には電鋳法による紡機のワインダー(ドラム)の製作、染色用除鉄軟化剤「ナンカー」等の製造も行ったが、収益性の問題でいずれも2〜3年で事業を止めている。

創業者の故 古市修次は、技術者として常に工夫し、新しいもの、独自のアイデアをモットーに挑戦しておられ、私はその伝統を守り、お客様からの情報をもとに、新規開拓と営業は直販体制、また社内では社員の厚生施策を第一に何事も早い対応で経営に携わって来たのである。全社員のみなさんのアイデアを終結して、新製品を生み出し続け21世紀の素晴らしき発展を期待しております。

写真1:開発当初の懸垂型T.K.ホモミクサーと故 古市修次名誉会長
写真2:磨砕微粒化機 T.K.コロイドミル

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