社報shinko〜親交〜 2007年07月号
創業80周年を迎えて 創業のころと戦後の復興の思い出(その2)「父の友人との出逢い」
会長 古市 實
戦時中、休業状態だったエメリーフィレット工場の整備に取り組んだ。爆風と焼夷弾で半壊だった建物、屋根、窓、扉の仮補修で雨漏りを直したり、半製品の散乱した内部を片付けるのに3ヵ月程あっという間に過ぎた。その間、必要な資材の手配が思うようにならなかった。阪神電車の淀川駅も焼失し、野田や梅田まで歩く毎日だった。戦後の物資統制令で、ほとんどの物の購入には、配給切符(通産省発行)が必要だったからだ。大阪の通産省支局経由で申請するよりも、東京の本省に直接申請した方が供給量も多く、許可も早かった。当時は国鉄の急行で東京に行くのも夜行列車で15時間もかかった。それも満員で窓から出入りする状態が続いていた。1週間に1度、通産省に通い続けたが、その間、必要な資材は闇で倍以上しても購入せざるえなかった。通産省の購入実績ができると、3カ月くらいで購入切符が定期的に送られて来るようになった。それも係官と馴染みになって、夜でも一緒に飲み会や麻雀の相手ができるようになったからである。
父 修次は、戦時中軍需工場として、大阪砲兵工廠の技官達と日々多忙な仕事のやり繰りで大変だったようで、終戦と共にがっかりして、少し疲れていたようであった。昔から技術畑で、工場の中で職人さんと一緒に仕事をするのが好きなようで、事務は苦手な方であった。戦後の会社運営で、占領軍マッカーサー元帥の発令する「企業集中排除法」が制定され、豊田系重役の兼務も投資も禁止され、資金繰りにも行き詰まっていった。幸い東洋エメリーフィレット株式会社は別会社にしていたので、昭和21年2月に代表取締役に任命された私は、本体とまったく別に活動することができた。しかし、最初は軍隊でもらった退職金と、父が工面した資金や学友、戦友より借りた資金で苦しい状態であった。特に2月に新円と旧円の強制切替があり、手元の資金は限られた。その節、十五銀行西野田支店(現 三井住友銀行)から5万円の融資を受け、初めての給料を支払うことができた。その時のありがたさが今でも忘れられない。
当時は復員軍人の有能者が多かったので、人員採用など何もかも、ゼロからの出発で、資金づくり、人づくり、食べる物の確保に多忙を極めた。ありがたいことに各紡績工場の復旧や増産にともなって注文が殺到し、統制令により、通産省繊維局直轄の資材割り当て工場として資材の配給を受ける一方、製品を各社に指定割り当てをして販売できるようになった。昭和22年のことである。利益も相当出るようになり、生産設備もやっと整備され好調であった。この頃、父の学窓、山田廣氏(元桐生高校染色科教授、ワイボルグ商会代表稲畑産業駐在)が福井の田舎に帰っていたが、大阪で仕事をすることになったとのあいさつに来られた。顔料のアリダイを日本に輸入するにことになり、ホモミクサーの必要性を話された。この日から父と共に高速攪拌機「ホモミクサー」の研究にとりかかったのであった。(8月号へつづく)
写真1:左から2番目が古市實会長、一人おいて先代の古市修次名誉会長
写真2:ラサ工業の協力で平砥石の製造工場を建設(現 淀川工場4号館の場所)
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