社報shinko〜親交〜 2018年03月号

当社のバックグラウンド Background of the PRIMIX(1)

代表取締役社長 古市 尚

古市勉 氏

テレビドラマ「陸王」で話題になった埼玉県行田市ですが、実は当社を創業した古市家の出身地です。昨年12月に行田にて、NPO法人ぎょうだ足袋蔵ネットワーク主催の講演会「世界企業トヨタの発展秘話-豊田佐吉を支えた行田人-」が開催されました。この講演会でトヨタグループの創始者 豊田佐吉氏を支えた人物として、当社の創業にも尽力した古市勉(写真)が紹介されました。古市勉は当社創業者の兄であり、会長古市實の伯父にあたります。当社が昭和2年に日本初の工業用クロームめっきを始めたのも、織機の部品のためだったと聞いています。織機とのかかわりから戦後は染料を混ぜ合わせる問題を解決すべく攪拌機事業に進出したのが当社の経緯です。今回、講演者の山口勝治様にご了承いただき、講演内容(山口様のブログ)をshinko紙面でご紹介させていただきます。この話の中で、人と人とのつながりや信用されることの大切さ、また夢に向かって突き進んでいく執念のようなものを感じました。当社は長く社是として「製品の独自性」「協調前進」「誠実明朗」を掲げておりましたが、そのバックグラウンドを垣間見た感じがしました。

豊田佐吉を支えた埼玉のサポーターたち(その1) 古市 勉

いまや世界に冠たる自動車メーカー、トヨタ。創始者豊田佐吉は晩年の大正八年に上海へ渡り、織布と織機の製造に乗り出す。後のトヨタ生産方式は上海工場から生まれたもので、現在のトヨタが飛躍的発展を遂げた源流は上海にあったといえる。
上海の工場経営と技術指導の陣頭指揮を執った人物が、佐吉の大番頭と呼ばれた西川秋次である。さらに外部サポーターがいた。上海に行く前、西川と学友だった三井物産社員の古市勉、そして同じく紡績課長の藤野亀之助。この二人、奇しくも同じ埼玉県行田市の出身だった。

1.豊田佐吉にあこがれた古市勉

最初に古市勉のことから。
古市は明治20年(1887)12月1日、埼玉県北埼玉郡忍(おし)町(現行田市)で元忍藩士、古市直之進の長男として生れた。父直之進は明治の頃、忍町長を約20年務めている。 “さきたま”の地名発祥地、行田は足袋の産地として知られ、まわりが農村地帯で織物が盛んだった。古市が中学生の頃、近所に工場を持つ機屋(織物業)があり、時々そこへ遊びに行っていた。工場の織機は三八式豊田織機で木製ながら動力織機だった。石油エンジンでベルトを廻していた。筬は竹製で綜絖は木綿糸で、細い針金の輪を吊りステッキのスプリングには竹製のバネを使っていたという。
子供の頃から豊田式織機になじみ、豊田佐吉にあこがれていたという古市少年は、熊谷中学から蔵前の東京高等工業学校紡織科へ進学する。そこで豊田佐吉の支援で学んでいた西川秋次と出会う。古市の人生はこの西川との巡り合いで決まったといえる。

2.学生の頃の友人 西川秋次

古市勉は、若いころの西川秋次についてこう書いている。
「同級生の中に一種風変りな学生がいた。西川秋次といい、あまり人と付き合わずコツコツと勉強し、特に自分らは紡織科の学生であるから織物や紡績の実習をやらせるのに、西川君は独り機械科の鋳物場に行って砂をいじったり型込めを手伝ったり、鋳物の湯の色を見守っているほうが多かった。この一風変わった人物と私は馬が合って非常に懇意にしていた」
西川の、どこかクールな研究態度と自己を律した真面目な性格が垣間見られ、古市とは対照的な人柄が浮かんでくる。佐吉に見込まれただけに、トヨタ生産方式の基礎をつくった西川らしい人間像が想像できよう。

3.西川と再会、三井へ転進する古市

東京高等工業学校を卒業したあと、古市は下野紡績(現東洋紡)に入社する。数年後、三井物産とは商売敵になる繊維機械商社、高田商会に転じる。そこで再び西川と出会うことになる。
ちょうど豊田佐吉は欧米視察から帰ったあとで、名古屋の栄生に自営で織布工場を稼動させていた。その側近として西川がいた。そして良質な綿布を織るには良い糸が決め手になる、と今度は紡績工場までつくろうとしていた。自動織機の研究資金を織布工場で稼ぎだしたかったからだ。このとき、アメリカで学んできた西川に紡績工場の計画が託され、紡績機を選ぶことになった。当時の紡績機は外国製が使われていたが、佐吉は三井物産からは買いたくない、という。そこで西川は学友の古市に相談し高田商会から買おうとする。ところが肝心の高田商会のトップが勝手に商談を破棄してしまう。それで結局、三井物産からプラット社製を購入することで決着。この一件が契機となって古市は高田商会を退き三井物産に転職することになった。

4.上海で佐吉、西川をバックアップ

三井物産へ転じた古市はアメリカ、イギリスでの体験を積む。帰国すると三井物産上海支店に勤務となった。大正8年(1919)のこと、佐吉が西川秋次を伴って上海に来る。長年の夢だった大陸での事業を起こすためだったが、古市にとって敬愛する佐吉が中国へやってきたのだ。しかも守り役として友人の西川が一緒である。ここ一番お世話をしたい。右も左も分からない二人に代わって、工場の用地探しから身の回りの面倒まで、古市は奔走する。
このような経緯からみて上海の豊田紡織工場は、古市の協力によってこそ建設が可能になったのかもしれない。

5.プラット社への特許権譲渡で介在

古市は、大正12年(1923)内地勤務となり大阪支店紡績課長を命ぜられる。そして豊田自動織機と深く交わるようになった。その頃から、豊田自動織機の性能は著しく向上してくる。イギリスの大企業プラット社が今までとは逆に、豊田自動織機のパテントを買いたいと言ってくる。プラット社と交渉できるのは三井物産の古市きりいない。ここぞとばかり古市はお膳立をする。結局10万ポンド(現在の約100億円)で特許権譲渡の契約が成立した。
それに至る経緯はこうだった。
自動織機の特許権取引は、英国プラット社から取締役チャダートンが来訪したときに始まる。昭和4年のこと。彼は、豊田紡織刈谷工場で稼動している自動織機500台が高速運転しているのを見てその性能に驚く。英国の工場に適していると判断したチャダートンは本国に報告し、そこから本格的な交渉に移った。契約のあと、手違いなどがあり万事片付いたのは昭和7年9月のこと。
古市勉は晩年のエッセーで、プラット社と豊田の折衝にまつわる話を書いている。そこには洒脱な商社マン古市らしい、英国人重役たちを向こうにまわしての芸当、接待などの裏話が痛快に描かれていた。
後に、古市は親友豊田喜一郎の協力を得て神津製作所を設立。紡織機械の「巻き上げ」に着目し独自の技術を開発する。彼のワインダー技術は先駆をなし画期的マシーン「RTワインダー」が業界を席巻する。後半生をワインダーと共に歩み昭和59年(1984)98歳で死去。

(その2)藤野亀之助へつづく

出典:山口勝治様ブログ「東人雑記」(http://blog.livedoor.jp/guen555/archives/52041011.html)より

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